昨今、「若者の○○離れ」のなかでも、バイク離れが特に目立っているように感じるのは気のせいであろうか。
バイクに比べてはるかに安心安全な自動車でさえ、維持費や都心における充実した交通網、あるいは自転車(特にロードバイクや電動アシスト付き自転車)のブームに押され気味なのである。
そうした現状のなか、わざわざ危険なバイクに乗ろうという奇特な考えの持ち主が減っているというのは、自然ななりゆきなのかもしれない。
しかし、人類は常に危険と隣り合わせに進歩してきた。
・安穏とした日々の生活では一生かけても得ることの出来ない刺激とスリル。
・風と一体化し、自分が地に足着いた人間であることを忘れさせるスピード。
(Yes, I am a bird!)
・馴れ合いから一線を画した、孤高にして孤独、uniqueにしてpreciousなタイム。
あなたが上記の要素に一切興味がなく、乗り物を単なる移動手段とお考えならば、このページを閉じてしまった方がいい。
人生は有限であるから、勉強なり趣味なり親孝行なりに時間を割いた方がよろしい。
しかし、バイクに少しでも興味があり、地球という大地を鳥のように風のように駆け抜けたい、あなたの中に眠る野生が欲するのであれば、その声には耳を傾けるべきだ。
バイクについて、語るべきことや知っていただきたい事は無数にあると言っても過言ではない。
それらを逐一書き記していくのは、今のあなたには情報過多であるしスマートなやり方ではない。
というわけで、今回はバイクに乗りたいと少しでも考えるあなたにとっての第一関門、すなわち、
「バイクの免許取得」
これについて、極めて主観的に書いていこうと思う。
具体的な料金や学習体系については、最寄の教習所なり合宿所、口コミサイトなどをあたって欲しい。
情報が錯綜する現代において、真に求められる情報とは正確さ、もしくは「端的にまとめられた、実感と感情の伴った体験談」であると、私は固く信じてやまない。
それでは、参ろう。
一、バイクは想像の八倍は重い
あなたがこの記事を読み、早速教習所なり合宿所でバイクの教習を開始したとしよう。
親切な教官であれば、実際にバイクに触れる前に、色々と必要なアドバイスをしてくれるだろうが、実際はそうでないことが多々ある。
バイクを扱うことが日々の業務として、最早習慣化している教官たちには、バイクの扱いに四苦八苦するということに理解が著しく乏しいのだ。
運悪くお粗末な教官と言うはずれくじを引かされたあなたに教官は、
「それじゃあバイクをこっちに持ってきて」
と、告げるだろう。
実際、私もそうだった。ほんの十秒ほど取り回し(バイクを押して動かすこと)について口頭で説明されただけだったのだ。
「まあ何とかなるだろう、自転車の親戚と思えばなんてことはないはず」
そう考えた私が愚かだった。
両手と腰でバイクを真っ直ぐにし、スタンドを外す。
たったそれだけの動作が、信じられないほどに辛いのだ。
「なんてこった…」
一緒に教習を受けていたガタイの良い高校生は、平気な顔をしてバイクを運んでいく。
一回りも年上の私が、高校生に負けるというのは恥ずかしい。
全身の筋肉を使い、力技でバイクを動かそうとするのだが、これが重いのなんの。
しかも私自身の重心が安定しないから、必然的にバイクもバランスを失いふらふらとする始末。
それでもなんとかかんとか、冷や汗をかきながら教官と高校生の待つ場所まで運んだが、この時点で私はすでに教習への意欲を削がれかけていた。
今となっては、体の使い方が誤っていたということが分かるが、その時はただただ絶望し、これから始まる教習への恐怖、不親切な教官への怒り、高校生へのみじめな嫉妬と羞恥が私の心を支配していた。
ここまで読んで、「何でそんなに辛い想いをしたお前が、バイクに乗ろうなどと偉そうに語っているのか、私をその地獄に巻きこむつもりなのか!」と思うかもしれない。
しかし、そうではないから安心して欲しい。
たしかに、教習の時間は辛かった。
もう一度やれと言われたら、そいつに無言で殴りかかるかもしれない。
だが、同じように確かなことがある。
「バイクの免許を取って良かった」
これだけは、自信を持って言える。
何故か?
それは、次の機会に話そう。
今はあの教習の日々がフラッシュバックして、少々気分が悪いのだ。
それでは、また。