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大谷吉継-友と義の為に生きた戦国武将

公開日:17.08.02

更新日:19.07.17

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大谷吉継、という武将をご存知でしょうか?

1600年10月21日。

天下分け目の合戦とも呼ばれた戦いの中で、友の為、身を賭して戦った武将です。

戦乱の世の中で、義に生きた彼のことを、今回はご紹介させて頂ければと思います。

 

関が原の合戦とは

 

そもそも関が原の戦いというのは、徳川家康と石田三成による天下取りの争いだといわれています。

時は豊臣の世。

秀吉亡きあと、跡継ぎとなった秀頼は7歳という若さでした。

そのため、五大老、五奉行という制度によって、他の武将が秀頼を支え、政を担っていたのです。

誰か一人が担うよりも、複数で政治を行うことで、互いに抑制力になるという考えもあってのことでした。

ですが、その中でも抜きん出た実力を持っていたのが、五大老の一人であった徳川家康でした。

家康が天下を奪おうとしているのではないかと感じた、石田三成はそれを危惧し、二人の間にはさらなる対立が生まれていきます。

秀吉は、三成ら文治派と呼ばれる頭脳が秀でた武将を重用していたことから、武闘派といわれるような体力勝負の武将たちは反発もありました。

このように、文治派と武闘派の間で対立があったことから、この武闘派が家康に期待している部分もあったことが、さらに二人の間の溝を大きなものとしました。

そこで起こった関が原の戦いは、家康を中心とする東軍、秀頼を後継ぎとすべく立ち上がった三成を中心とする西軍にわかれ、東軍の勝利に終わりました。

元々は西軍有利と思われていた合戦ですが、秀吉の養子から小早川家の養子となった小早川秀秋の裏切りなどもあり、その裏切りが計画的であったことからも、実際は最初から勝利の女神は家康に微笑んでいたのかもしれません。

 

吉継の西軍参戦の決意

 

大谷吉継は、西軍として参戦し、戦死を遂げた武将です。

彼は石田三成の親友とも呼べるべき存在であり、三成も彼には絶大な信頼を寄せていました。

いわゆる文治派の武将であり、秀吉からは「百万の兵を任せたい」とまでいわれたという逸話の残る彼ですが、実は当時病気を患っていたことから、周囲からは疎まれることもあったようです。

病気に関してはあらゆる説がありますが、ハンセン病、梅毒などと言われており、当時は感染すると強く恐れられている病でもありました。
(現在はどちらともそれぞれ未然に防ぐことができますし、万が一感染しても完治する病なのでご安心下さい。)

ある日、茶の湯の席に吉継と三成はそれぞれ参加をしていたそうです。

その際、病気の関係で出来ていた顔の膿が、茶の中に落ちてしまうというハプニングがありました。

当時の茶の湯の席は一つのお茶を回して飲んでいたそうなのですが、吉継の後に茶の回ってきた人々は、皆飲むふりだけをし、決して口をつけなかったそうです。

それを見た三成は、「同じ仲間であるのに悲しいことだ」と、その茶を気にせず、飲み干した…という逸話があるのです。

このことをきっかけに、吉継は三成を支えると、心に誓ったといわれています。

文治派ではありますが、関が原の合戦前、三成に挙兵を持ちかけられた吉継は、三成の人望のなさからも、それを無謀だと断ったそうです。

吉継は次に天下をとるのは家康だと感じ取っており、実際、合戦直前までは東軍側で参戦する予定もあったそうです。

しかし、頑なに秀吉、そして秀頼への忠誠を誓い、意思を曲げない三成を見て、吉継は西軍での参戦を決意します。

すでに自力で歩くことのできなかった彼は神輿を担がせて戦場に立っていたそうですが、それでも尚、三成のためになることを選んだのです。

 

最初こそ西軍有利に事の運んでいた合戦ですが、ある裏切りから、勝敗が分かれます。

西軍の中でも有数の軍勢であった小早川秀秋が、東軍側へと寝返ったのです。

この裏切りは事前に取り決められていたことであり、吉継は合戦前より察知していました。

実際、この裏切りから一気に勝利は東軍に傾きますので、吉継は最初から、このことを予測していたのでしょう。

それを裏付けるエピソードとして、吉継か陣を構えた場所についてお話させて頂きます。

三成が陣を構えていたのは、小関村。

一方、秀秋が陣を構えたのは松尾山と呼ばれる場所です。

では吉継がどこに陣を構えたのかというと、まさにこの二人の間。

秀秋が三成に向けて進軍する際に、真っ先に攻撃されるような場所に、陣を構えたのでした。

負けるとわかっているこの戦。

それでも友の為に散ろうとする姿勢は、敵軍にさえも感銘を与えました。

後々、関が原の地には吉継の墓が建てられます。

その墓を建てたのは、吉継と刀を交えた東軍の藤堂高虎でした。

 

 

その時、すでに病により失明していた吉継は、側近の湯浅五助に、何度も負けたかどうか聞いていました。

五助は「未だ」と返し続けるも、敗戦が明らかになり、負けたことを吉継に伝えます。

敗戦を聞いた吉継は、病に冒されたこの身を敵に晒すのは恥だと、その場で自害をし、五助に埋めさせました。

吉継の介錯をした五助ですが、後に東軍の武将に見つかり、吉継の首のありかを聞かれます。

その際、五助は主人の意思を汲み、「知っているが答えられない。」とし、自分の首の変わりに首の場所を知らせないように頼み込みました。

五助の首を持っていった東軍の武将は、もちろん吉継の首の場所を聞かずに五助の首を持ってきたことを咎めましたが、「知っているが、約束したので答えられない。」としたとのことです。

そういうこともあり、吉継の遺体は今でも関が原に眠っているのでしょう。

こうして部下にも慕われ、友のために散った吉継は、江戸の世のおいてもなかなか悪く言われることはなかったようです。

 

義と友の為に散った武将

徳川の治世となり、江戸の世は長きに渡る平和を実現したのですから、一言に西軍に勝ってほしかった、とはいえません。

ただ、負けた側にも、それだけの背景があり、こういった世に残ってほしい逸話があることもまた事実です。

ここで、少しでも歴史に触れ、友と義の為に散った武将の名を知る人が増えてくれれば、嬉しく思います。